蔭位制の本質について

寂楽寺惟盛 2015-06-08 15:28:35
 蔭位とは「律令国家貴族の特権の一で、高位者の二十一歳以上の子、孫に与えられる位階である。この特権を受ける者を蔭子、蔭孫といった。大宝令で定められたが、その後の令制では、蔭位資格者は皇親五世以上の子、諸臣三位以上の子、孫、五位以上の子である。親王の子は従四位下、諸王の子は従五位下、五世王の嫡子は正六位上、諸臣一位の嫡子は従五位下、以下逓減して従五位の嫡子は従八位上で、庶子は一階を降ろし、孫(但し三位以上)は更に一階を降ろす。勲位、贈位にも適用された。」これは『平安時代史事典』の解説である。

文武天皇像(道成寺蔵)
文武天皇像(道成寺蔵)


 日本の蔭位制も中国の唐の門蔭制から継承し、いくつかの改定を加えて形成したものである。日本の律令制度成立にあたって、蔭位制の修正部分は、日本古来の氏族と何の関わりがあるか、そして、どんな本質を反映するのかは、いろいろな議論が出ている。ここで尾崎陽美氏の「律令官人制における蔭位制の本質」を元として、私の考えを述べようと思う。

 尾崎氏の論述によると、現在通説としての野村忠夫説は、改変についてこのような理解である。すなわち、「唐制を改変継受して大宝令で創設された蔭位制規定は、族姓的な要素の官人制体系への意識的な編組として注目すべき意味を担ったと言いうるであろう。そしてこのような蔭位制の選任令条への定着が、徳行才用主義の原則をかかげることを可能にしたのである。」と述べられ、族姓によって高い地位を保持し得た者たちの地位を維持、継続するために蔭位制が取り入れられた。野村説は「大宝令条からの族姓的要素の削除」と「大宝令における蔭位制の創始」を結びつけて理解するものであるが、この二つを結びつける時有利な根拠とされたのが、牧英正氏が指摘された日本蔭位制における唐制の改変である。牧氏は日唐の比較をして、改変するのは以下の四つである。

藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)


 ⅰ唐制では三品以上は曾孫に、五品以上は孫に及ぶのに対し、日本では三位以上は孫に、五位以上は子に及ぶとして、蔭叙範囲を一世代縮小している。

 ⅱ唐制の蔭は嫡長子系列のみと考えられるが、日本の蔭位制で嫡?庶の別を設けて、一等降ろして諸子にまで蔭階を及ぼした。

 ⅲ唐制では蔭叙は二十五歳以上と推測されるが、日本の蔭位制は二十一歳以上とした。

 ⅳ秀才以下の唐の科挙制による第階がほぼ同等に継受されたのに、唐の蔭階に比べて日本では上位者の蔭階が著しく高くなっている。

 牧氏は以上の四点から、日本の蔭位制は高位官人層に有利な形に変えていると指摘された。しかし、尾崎氏はそれに対して、反論を述べた。

 ⅰについて、牧氏は「日本の律令が一般に唐の律令より規模を縮小しているがこの例に倣ったもの」として、特に取り上げられなかったそうだ。尾崎氏は「この改変によって、高い蔭階に預かりえる可能性も、子々孫々蔭位の特典を享受して地位継承を行う可能性も減らされてしまう。これは明らかに世襲的な地位継承を困難にする方向への改変であり、高位官人層に有利な改変とする牧氏の指摘に抵触するといえるであろう。」と述べたが、私はやや異議を持っている。



 上表が示されたように、日本の蔭位制は明らかに高位官人層に有利な展開が向かっている。中国の一品の蔭子の正七品上に対して、日本の一位の嫡子は従五位下で、堂々と貴族層に入る。それに、なぜ日本では曾孫までの蔭位がなかったのかは、それは必要がないと考えられる。つまり、日本の高位官人層は著しく優勢をもつため、子孫は常に有利な立場に立っている。曾孫の蔭位もしあっても、きっと孫より一段下にする。そして、上級貴族は限定されたから、曾祖父の蔭位を借りるより、父或いは祖父の蔭位を使う方がずっと得ではないか。だからこそ、蔭位制度を制定する当時、おそらく高位官人層に傾く傾向があると推測できる。さらに、この優遇政策は、五位以上の貴族全体ではなく、おそらく三位以上の極小さい範囲だけであろう。

粟田真人  『前賢故実』より
粟田真人 『前賢故実』より


 ⅱについて、尾崎氏は吉田孝氏の説に従い、唐制における蔭の授与は、嫡子だけではなく、兄弟平等に授与されると説明する。この点について、『旧唐書』巻一三八列伝第八八趙憬伝には「元亮兄宣亮、弟承亮,皆以門蔭授官」と書いているから、おそらく吉田説は正しいかと思う。ただし、嫡庶の区別にも関わらず、日本の庶流の蔭位も唐制より遥かに優遇である。

 ⅲについて、尾崎氏は「牧氏は元制の出身年齢から唐制の出身年齢を推測して、それを日本制と比較するという方法を取られている。唐制の出身年齢が明らかになってない以上、この改変について検討から省くべきであろう。」と提示された。この意見も私も賛成する。ただし、二十五歳といっても、二十一歳といっても、科挙の年齢と比べて、遅れると言える。『旧唐書』巻一三九列伝第八九陸贄伝に「年十八登進士第,以博学宏詞登科,授華州鄭県尉。」『旧唐書』巻一七八列伝第一二八鄭畋伝に「畋年十八,登進士第,释褐汴宋节度推官,得秘書省校書郎。」という記録が残っているので、科挙は少なくとも十八歳で参加できることがわかる。つまり、唐では科挙を通して官人になるのは、蔭を借りることとあまり差が大きくなかった。もし年齢的に、科挙が若年で参加できるなら、もっと有利になる。唐代の前期は蔭で官人になるのは多かったが、後期になると科挙を受ける人はずっと多くなった。唐を通して、有名な官人のなかで蔭を使う人が極めて少ない。

 ⅳについて、尾崎氏は「唐の蔭階は相当する散官があって成立しており、蔭階の高下は補任される官人予備軍としての官職の高下に結び付けていたのに対して、日本では蔭によって補任されるトネリに相当位はなく、蔭階の授与は官職から離れて全く単独に施行されていた。日本の蔭階が唐に比べて高位であったことの意味は、唐制との単純な比較では測れないのである。日本の位階と唐の品階を同列に置いて議論する方法自体に問題点を指摘しておきたい。」とされている。

 それは、私が賛成しかねる。確かに、日本の官位制度は古代の冠位制を継承した物で、中国の官品制度は漢代以来の石禄制から発展してきたのである。しかし、日本の官位制も唐制を十分参考し、たくさんの内容を取り組んでいた。取り組む過程に改変するところを考察すると、両国の違いを探求する一つの方法だと思われる。もし、尾崎氏が指摘するようになると、歴史学では比較論が意味がなくなるではないか。もともと各国の歴史上の政治、経済などいろいろな方面で性質が違うから、それが比較できないと、歴史学比較論自身は居場所がなくなると思う。

 最後に、尾崎氏の結論として、「日本の蔭位制が地位継承の永続性を低くする方向へ改変されていたこと、蔭位制に嫡?庶の別を設けて律令的継承のあり方である嫡子制を確立しようとしたことである。蔭位制は社会制度として律令的官僚制度原理が徹底されたことによって、新しい組織原理で支配機構を専有する人々を再生産するための制度」と提示される。私見では、この新説にいくつかの疑問点をもっているので、通説に賛同する。ただし、蔭位制は天皇が中心としての順列を作るために生まれたものであるが、その制定する途中で、有力豪族の影響によって、高位官人層に有利な規定を作られたのである。つまり、蔭位制は天皇と有力氏族の妥協の産物であろう。
寂楽寺惟盛
作者寂楽寺惟盛
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